いきなりですが、本年3月2日に、当グループの旗艦会社である飯島建設株式会社が還暦(設立60年)を迎えたことをお話しさせていただきました。
60周年ということもあり、「そういえば他界した父親が残した未完成の過去帳が家の仏壇にあるなー。」と思い出し、正直、初めて手に取ってみました。
ご先祖様からすれば、「この不届き者め!!」ですよね。
さて、その過去帳には飯島家の歴史と並んで飯島建設の歴史も記載されていました。以前、設立当時から当社で働いて下さった役員から、会社の設立の経緯をちらっと聞いたことがありましたが、創始者である父親から直接聞いたことはありませんでしたので、今回この過去帳を見て、文字ではありましたが初めて父親から会社の歴史を聞いているような気持ちなりました。
過去帳によると、明治38年の日露戦争中、飯島鍛一郎(曾祖父)が間組(現在の株式会社安藤・間)の下請けであった西松光治郎氏(現・西松建設株式会社の初代社長)と知遇を得て、埴科郡五加村の青年約50名を率い、東海地方の鉄道工事に従事したのが始まりと記載がありました。
農家でしたから、多分、曾祖父が農閑期に近所の若者を集めて出稼ぎに行ったのだと思います。
この頃、日本は急速にインフラ整備が進んでいったので、毎年のように農閑期には出稼ぎに行っていたのでしょう。
大正12年には飯島貞治(祖父)が左官業を創業。堅実・実直な性格が顧客の信頼を得て、埴科・更科地方で多数の業績を残しましたとありました。
昔、私が中学生くらいだったでしょうか。当社が施工させていただいた戸倉上山田温泉にある老舗旅館のご主人が、私の祖父・貞治の職人時代を覚えていて、この過去帳に記載されている通り、それこそ堅実・実直を絵に描いたような性格だったし、そんな仕事ぶりだったと話してくださったことを思い出しました。
昭和21年には建設業「飯島組」を創立し、代表者は飯島貞治となりました。新たに「飯島建設」を開業し、代表者に飯島典男(父)が就任とありました。
今回、初めて過去帳を手に取りましたが、当グループが本格的に建設業に従事したのは、明治38年の農閑期の出稼ぎ時代は置いておくとして、昭和21年が始まりだと改めて認識しました。
そうなると、来年は傘寿ということになります。
しかし、この過去帳、自分も加筆していく責任があるのか?
続きを作成しないと亡くなった親父が怒ってしまうか?ちょっと複雑な気持ちです。
どうなんでしょう?
迷いながらも、以上です。