飯島建設株式会社

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K事務長 2020.12.2

 いきなりですが、実は私が社会に出て最初の上司であり、大恩人のK事務長が10月に亡くなってしまいました。

 K事務長は高校卒業後、長野県の飯田市から上京、以前私がお世話になった戸田建設さん一筋に高度経済成長期からバブルの崩壊、そしてリーマンショックを経ながらも、「平成」や「令和」だって、まさに「昭和」の代表として生き抜いた方。

 K事務長との思い出は尽きない。

 「飯島は野球部出身だから。」と、最初の赴任地の建築現場(東京医科歯科大学医科新棟新営工事)には、28㎝の長靴と安全靴を用意しておいてくれた。(これがでか過ぎて大変だった。)

 たくさんお酒も飲ませて貰った。

 そして、何時間も何時間も新入社員の私と同じ目線で語りあってくれた。

 嘘は絶対にばれた。

 そして、かなり怒られた。

 酒を呑む時は、つまみはほとんど食べない。だから、一緒にいるといつもお腹が空いた。

 「たまには肉行くぞ!!」と言ってすき焼の「源助」に行くが、肉は一枚も食べなかった。

 とんかつ屋「金好」のカウンターにはいつも猫がいた。なので行くのが嫌だった。

 「有薫酒蔵」で、酒ばかり呑んで、料理をなにも頼まないこともあった。

 銀座の「うさぎ」で初めて飲んだソルティ・ドッグと初めて食べたレーズンバターが忘れられない。

 何度も通った「青いたんぽぽ」で呑みつぶれ、ママから店のカギを預かってそのまま店に泊まった。

 終電だと言っているのに全く帰る様子も無く、数えきれないほど八丁堀のカプセルホテル「ファーストイン京橋」に泊まった。

 めずらしく終電に間に合ったと思ったら、立川を通り過ぎて大月まで行っていた。

 行方不明になった同僚を探すために、同僚のアパートがあった新宿2丁目で待ち伏せするため、アパートの見えるゲイバー「だみあん」で、何日も一緒に張り込みをした。

 盆暮に帰省する時には「両親に持って行け。」と、虎屋の羊羹や千疋屋のメロン、そして山本山の海苔を持たせてくれた。それこそ「千疋屋」を「センビキヤ」なんて読めなかった。

 2年で営業部転属になった時は、あり得ないほど盛大な送別会を浦安の「サンルートプラザ東京」で開いてくれた。

 営業配属になって初めて受注した仕事は、歌舞伎町のど真ん中の「インパックスビル」。歓迎される立地では無かったが、「飯島の初仕事だ!」と、関係各所を懸命に口説いてくれた。

 27才で父親が急逝した時、自分のことのように泣いてくれた。

 K事務長からの深い愛情は、東京を離れてからもひしひしと伝わって来た。

 未だに亡くなったことが信じられないでいる。

 合掌

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